縁起
求法を終えて唐から帰朝した弘法大師(空海)が巡錫の砌り、大同年間(806〜10)黒髪山に西光密寺(現大智院)を創建されたとき、その末寺として東光坊を建立したと伝えられているが、阿忍僧都をもって中興開基としている。
鎌倉時代には、黒髪三所大権現と称して修験の道場となり、武雄領主後藤氏の祈願所として栄えた。
以後、火災により消失するも幾星霜を経て、天文16年(1547)阿忍僧都(中興法印第一世)が再興して、本尊に薬師如来、脇持佛に阿弥陀如来と聖観音を安置したとされる。
なかでも、阿弥陀如来立像は、当寺に現存する最も古い仏像で安阿弥の作と伝えられ、その背面に次のような願文が記されている。
『日奉三造立一厨子一宇・信心 大檀那後藤藤原純明公権少僧都阿忍 天文十六年丁未卯月八日 東光坊』とある。
まさに、阿忍僧都によって復興された東光寺の歴史を伝えるものである。
その後、領主の崇信は篤く、貴明公は元亀3年(1573)仏殿を造営する。江戸時代に入り、第五世堯盛法印は時の武雄城主茂和公の命により、明暦二年(1656)黒髪山大権現を勧請して鎮守社として祭祁し、近隣十数か村区に神社を創建し統治する。
茂紀公は寛文3年(1667)仏像の修復に寄与するなど、代々料米を下附して外護につとめ、歴代領主の帰依を受けて隆盛する。
しかし、明治維新の神仏分離令によって鎮守社は独立移転し、東光寺も寺運の荒廃衰退を余儀なくされたが、法灯は継承されて中興宥厳法印と先住第二十九世隆堅法印(定額位を賜わる)によって修復整備され現在に至っている。
さて、現存する本尊は元禄10年作の薬師如来坐像で、内陣中央に安置されている。現住職になり新たに脇佛として日光菩薩と月光菩薩を、そして十二神将の寄進を受ける。その他、不動尊・如意輪観音・大師像など諸仏を祁る。
また、兼好法師撰、小倉山京極定家筆「真髪山紀掘」の古文書は、弘法大師と黒髪山との関係を知る上で貴重な資料となっている。
おもしろいことには、異彩を放つ尊像が本堂内のガラスケースに収めている。
ひとつは、有田焼(深川製磁)の聖観音立像であるが、牛の骨紛を混入する事により一層の白さを際立たせており、不思議にも人を寄せつける力があり熱心な信仰を集めている。
もうひとつは、像高20センチほどの金銅仏である。鋳造年代は不詳であるが、一見したところ、白衣観音坐像のようであり、弥陀定印のように手を組んでいるけれども、不思議なことに右手の中指を立てている。
これは交差する親指と中指で十字架を表現しており、隠れキリシタンの人々が聖母マリアとして拝んだといわれる。そのために、【隠れキリシタン観音】と呼ばれている。
第37番 三間山 東光寺
所在地 |
〒849-2303 佐賀県武雄市山内町三間坂甲14866 電話:0954-45-4533 |
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名称 | 三間山 東光寺(みまざん とうこうじ) |
通称 | |
宗旨 | 真言宗大覚寺派 |
本尊 | 薬師如来 |
寺宝・文化財 | 古文書「真髪山記事」 |
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定期的に行われている行事をご紹介致します。
日時 | 行事名称 | 内容 |
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1月1日 | 修正会 | ... |
2月3日 | 星祭 | 13時より。星祭り護摩祈祷。昼食あり。福引(福豆)... |
5月1日 | 花祭り甘茶取り・水子法要 | 13時より。花祭(甘茶取り)・水子法要・柴燈護摩祈祷。昼食あり... |
8月8日 | 施餓鬼会 | 受付11時より。昼食あり。法要13時より。新仏並びに先祖塔婆供養致します。... |
12月5日 | 暮説教法要先祖総供養 | 檀信徒先祖総供養説教法要。諷誦塔婆回向・布教師による法話。昼席13時より(昼食有り)、夜席20時より... |
12月31日 | 除夜の鐘 | 23時30分より。豚汁の接待あり... |