縁起
中世以降、大友氏が所領して戦国大名に成長、二十一代宗麟の代には、九州北部の六カ国を有す大大名となった。
当時の宗麟は、ポルトガルや明国と貿易、またキリスト教を信仰して、自ら洗礼名ドン・フランシスコと名乗った。
天正9年(1581)南国の覇者・島津義久の軍勢を迎えて宗麟は、自ら十字架の旗を座かせて日向国に出陣した。この道中、キリスト教を奉信する兵士のなかには、所在の社寺を破壊する者もあったという。
當陽寺もそうした輩に焼討ちされて、文書などを焼失した。創建は定かでないが、寛文年間(1661〜73)河野九兵衛が再建して、丹生中村の庄屋・池見家の門を移した。
当時は、臼杵月桂寺の末に属す。
島津氏に敗退した宗麟は、天正元年(1573)家督を義統に譲り、臼杵城を築いて隠居した。同14年、島津軍の攻撃に遭って義統は、府内城を出て豊前竜王城に逃れた。當陽寺が焼討ちに遭ったのはこの戦か、世に「水丸合戦」ともいう。
河野九兵衛は、伊予河野氏の一族である。