縁起
『桂川町史』には、比叡山延暦寺末、弘仁元年(810)伝教大師が開基した。本尊に薬師如来を安置、説に伝教大師が謹刻した七仏薬師の一つであるという。
以来、職盛して大伽藍を有した。古図によると本堂・回廊・楼門・五重塔・鐘楼・仁王門・御供屋などが建ち並ぶ堂々たる構えであった。
こうした大伽藍も、戦国時代に大友宗麟と島津貴久の兵火に擢災。暦応2年(1339)8月、霊山という僧が中興したとあるのは、元号の間違いか、元禄9年(1696)崇福寺古外が撰した縁起一巻を蔵す。
七仏薬師の信仰
延暦23年(804)春3月、伝教大師が入唐、翌年8月に帰朝して、太宰府に逗留のみぎり七仏薬師を自刻、第一座を朝倉町の南淋寺(当霊場第二番)に、第二座を比叡山延暦寺の根本中堂、そして第五座を種因寺に安置した。
別名を法海雷音如来と号す。
七仏薬師のことは、南淋寺が所蔵する古文書にも見えるが、『叡山大師伝』とは、その記述においていささか異なるようである。
伝教大師が比叡山に建てたのは、薬師堂が最初であるが、承平5年(935)焼失、薬師如来は難を免れた。天慶元年(938)再建したとき、薬師仏二体に七仏薬師を新像したと伝う。
『薬師経』には、薬師仏の像形を七体つくるとある。やがてこの説が発展して、七仏薬師の信仰が生まれた。七仏薬師は功徳に疑いを持つ人たちのために現れて、その疑問に応えたと説く。
種因寺の薬師如来は厨子入り秘仏、御前立の像は説に南北朝時代の作、脇士に十二神将と客仏を侍らす。