縁起
遠く平安朝のころに開創され、1千年来の法燈が輝く広厳山常福禅寺は臨済宗南禅寺派に属し、肥筑の平野を一望する山腹の風光明媚の地にある。かつては真言密教の霊場とされ、奥の院の宝殿や古い堂宇の敷地跡は、この古い寺の歴史を物語っている。
藤原中期の作とされる本尊薬師瑠璃光如来像、護法神帝釈尊天立像はともに木彫であり、国家重要文化財に指定され、現在、仏像収蔵庫に安置してある。境内の所々には、元禄代の石工、平川与四右衛門一族の石仏が群がり、如意輪観世音菩薩は町文化財に指定される。(平成10年3月)弁財天の狛犬像や七夕(織姫星君)も非常に珍しい。奥之院は佐賀県八十八ヶ所めぐりの発祥地でもあり、春秋彼岸には、お遍路さんの巡拝地となっている。
当寺が真言宗より禅寺となったのは、桃山末期のころ、古月卯和尚がこの山境に杖をとどめ再び開山になり禅寺としての堂宇が整えられた。現在の位置に本堂・庫裡が移築されたのは江戸中期と推察される。藩政時代は多久藩に属した領内にあったので、多久家の信仰も厚く絵地図(多久市図書館蔵)によると、現仏殿の南西の地に薬師堂が別棟として建立されていたようである。中興の空翁和尚、南嶺和尚、桐嶺和尚は禅僧として有名であり、18世文宗和尚再中興として、石造五重塔、修行大師、本堂の建立、奥之院天井の絵馬の描写にある。
21世良演和尚は国宝仏像、収蔵庫の完成、境内の防災工事にも尽力する。尚、平成の薬師瑠璃光如来の入仏、(仏師 浦叡學、彫刻、福岡県糸島郡在住)平川与四右衛門300年祭、常福寺讃歌作成にも貢献。平成10年11月当山22世宗兼和尚就任となる。翌年平成11年5月8日、九州四十九院薬師霊場第43番札所に認定される。秋彼岸には金木犀(県の名木指定、樹令310余年)の香りが町内に満ち満ちて旅情を深める。
本尊・薬師瑠璃光如来座像・木彫
古くから常福禅寺の本尊仏であったこの仏教尊像は、美術史の中では、藤原中期の彫造様式を今伝える木造で、桧材を用いた一木造りで、仏師の彫刻になるものである。
一切衆生の心身の病魔を除き、法薬を与えられという(教義)薬師如来の面相には、慈悲深いまなざしの中にもまた、端然としたきびしい表情が見られる。右手には施無畏の印定が見られ、左手には、薬壷をもっておられるが、両膝から後部にかけては流麗な衣文が深く彫り出されている。
漆箔、彩色の施されている八葉蓮華の輪光背や、木造漆箔の蓮華の台座は後作のものである。仏体は大正3年4月国宝に指定され、文化財保護法によって現在は国の重要文化財となっている。奈良時代の木彫とは趣を異にした、日本的な仏教尊像である。
護法神・帝釈尊天立像・木彫
仏法を守り、諸仏諸菩薩を護る帝釋天は、当寺の十二善神像(後作)と共に、本尊仏の脇侍であろう。やはり藤原中期前後の彫像様式であるが、本尊の薬師如来が中央の仏師の手になったのに対し、この立像は、頭部から、彫眼、体躯すべて(手首、木剣を除く)一木造りであって、多分に地方仏師的な荒々しさと素朴な強い彫痕が見られる。九州地方には非常に類の少ない仏教尊像である。
やはり本尊仏と同じ年に国宝の指定を受け現在におよんでいる。両仏体共に、この寺の歴史の盛衰を無言の中に物語っている。
(昭和25年国家重要文化財指定)